人の情熱
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杜氏
岡井 勝彦
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頭・代司 (麹責任者)
東村 公人
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酒母責任者
狩谷 哲也
清酒の製造工程は長く、複雑であるため、携わる人の技術、能力が影響する度合いが大きいと言えます。名杜氏と呼ばれる者が出現する理由です。また酒造りは一人ではできません。杜氏以外の藏人全体の習熟度、チームワークも大切な人の要素です。教育訓練、指導といったことも杜氏の仕事と言えますが、安全、衛生から作業環境づくり、処遇、任免という部分まで広げると、それは蔵元の「人」に関する力量が問われる仕事でもあります。
ともすれば杜氏の腕前にスポットライトが当たることが多いのですが、広くて深い領域が、酒蔵の「人」の要素には広がっていることをご理解いただけると幸いです。
当社は、杜氏を社員を育成して起用、担当させる体制であり、蔵元やその子息が兼ねるスタイルではありません。かつては農閑期の季節雇用者を率いた杜氏に製造を委ねていましたが、社員制への転換の歴史について、次にまとめていますので、ご参考にしてください。
人の情熱「当社における製造の社員化の歴史」
1.杜氏の歴史-季節請負の時代
当社の製造部門は現在では社員中心で成り立っており、リーダーに杜氏の呼称を認めていますが、通常の社員制度に切り替わっています。ところが、かつて当社を含めほとんどの酒蔵の杜氏は、季節雇用者に占められていました。当社においては、終戦期まで安芸津杜氏(広島県)、その後、但馬(兵庫県北部)からの杜氏、藏人に依存してきました。ここではまず季節雇用制による杜氏、藏人の時代をご説明したします。
社員制となるまでは、形式としては個々の従事者との雇用契約によるものの、実質的に請負の性格が強い形態であり、杜氏と蔵元との間で、どれだけの数量のどういう酒を造るかを杜氏が引き受け、杜氏が地元で必要人員(藏人)を確保して連れてくるというものでした。農閑期になり、郷里を離れ遠く離れた酒蔵に一旦入れば、昔は造りを終えるまで親の葬儀にも帰らないと言われたほど、厳しい働き方であったといいます。
どこの地方の杜氏が来るかについては、長年の関係からそれぞれの地方との結びつきができていたようですが、おそらくは江戸時代からの慣行のうえに、税務当局、国税局所属の技師、鑑定官及びその経験者の酒造組合顧問等の斡旋、杜氏出身地の組合への直接依頼等で決まってきたものだと思われます。言い伝えでは、和歌山にも新庄(田辺市)杜氏があったと言いますから、遠くから杜氏を招く関係になるのは、灘・伏見の先行地域以外では、近代以降、全国を管轄する税務当局ができて以降かもしれません。
2. 蔵から見た伝統的杜氏について
聴き取りによる記憶に頼りますが、但馬杜氏といっても、その地方に満遍なく杜氏の自宅が散らばっているわけでなく、杜氏出身者の出る在所は固まっています。後年、蔵元として社員化を進める中で酒造りというものを観察していく中で理解できたことがあります。杜氏に定年はありませんが、高齢となり引退する場合、誰を後継にするかについて、能力査定もありますが、近親縁者そして同じ在所を優先していたようなのです。高度成長期以前においては、杜氏になれれば、小学校の校長になるのと同しくらい、収入も多く、尊敬もされたらしいのですが、まずは杜氏と藏人の違いを理解しておく必要があります。日本酒の工程は長く複雑であり、多くの職位があります。杜氏という呼称は蔵の製造を統括指揮する者であり通常、蔵に杜氏は一人しかいません。藏人は杜氏を含めた酒造りに携わる者の総称、または狭義には蔵の製造部門の杜氏以外の者を指します。杜氏の下に中核となる三役、通常、頭、麹屋、酛廻しがいます。但馬では麹を代司(だいし)と呼んでいました。あとは醪を搾る酒槽(さかふね)の担当者の船頭、米を蒸す工程の責任者の釜屋とか、呼び名はいろいろありますが、役付き者がいます。造りの規模により兼職もあります。小さい規模では兼職も多く全員役付きの場合もありますが、道具洗いや運搬に従事する駆け出しまで、多くの職位、呼称がありました。だいたい蔵へ行くようになって数年、用具を洗うか物を運ぶかが仕事の大部分を占め、これは今でもそこから始めざるを得ないようです。これはいかによく洗い清潔にしないといけないかを体にたたき込む大事なことではあるのですが、近年では短期養成のため、研修、教育に代えられてきています。さらに集団で蔵に渡ってくるから、まま炊き、という炊事担当のポストもありました。昭和50年代には、中高年の地元婦人を炊事婦として連れてきていました。蔵によっては蔵元の婦人が担当するケースも多く、風土の違いから、いつも苦情が来て蔵元の奥さん方が非常に嫌がったという話もよく聞きました。余裕のある蔵では炊飯婦を請負人数に含めるのを認めていたらしく、当社はそのランクであったようだと今では理解しています。
結局杜氏の後釜は、自分の妹の婿や甥、優秀と認めた者等を指定し、そう仕込んでいくわけらしいのです。杜氏の仕事は工程全体の管理、計画が重要な要素であり、個別の作業を毎年勤めていてもそう簡単にわかるものではありません。蔵元と相談し、その計算でどれだけの米がいるかだの、仕込みの配合、製造期間全体のスケジュールを計画し、状況に応じて組み替えていくことについては、管理や事務能力も要るわけで、たいてい教えてもらう必要があります。もちろん重要工程でのコツや加減の指導においてについても、この者に受け継がせると決めてかかるわけです。それで杜氏を出す村、地区が固定、集中化していたということです。
私が子供の頃と、一度外へ出て戻ってきた1989年頃ではだいぶ変わりはありますが、高度経済成長の中で、出し手地域は、出稼ぎに行かなくてもよくなることをめざし、企業誘致を進めた結果、農閑期に酒造に出稼ぎするという選択は避けられていくようになってきたのでした。
3. 社員化の必要性の認識と取り組みのスタート
1988年末に私が蔵に戻った時、業界としても早晩季節雇用の形態は行き詰まることが認識され、杜氏に聞いても確保困難ということで、対応を迫られることになりました。当時の業界の動きとしては、一方では製造方法を合理化、機械化する方向があり、大規模機械化のみならず、米を蒸さずに煮込み、酵素で糖化、液化する仕込み法の導入までありました。他方、伝統の造りにこだわり、蔵の地元で採用した社員を育成して杜氏も社員化しようという動きも出てくるのであり、当社はまさにその方向をとったのでした。当初、認識不足と経営資源の不足から、通年雇用化による人件費増加には耐えられないことが強く意識され、その対策として夏期の業務確保が課題とされました。清酒の製造期間が終わったら梅酒等のリキュールや甘酒等を製造をするのですが、当社においては、奈良漬製造を手がけ、観光地での海の家の経営を企画し、用地を探したこともありました。まずは試しに、地元で採用した社員を季節雇用の杜氏の指揮下に入れたわけですが、続かないという事実に直面します。酒造作業は冬季早朝の低い気温を利用することで確立しており始業時間が早いのですが、朝が早いから若者に避けられるのではないかということで、朝8時からの始業に改めるよう指示したことがありました。季節従業者達は8時までに仕事をしてしまい、送り込んだ地元の若手はゲスト扱いで技術を学ぶことはできませんでした。
純米酒の販売が軌道に乗り始め、1993(平成5)年で桶物取引(大手への下請)を辞め、純米酒に集中する製造に転換、一旦規模を大縮小します。その年は井上秀則杜氏を入れて季節工4人(但馬)、地元1、となり、技術教育を杜氏に懇請しますが、それでもなかなか進みませんでした。一方で純米酒の製造数量は増え、季節5、地元1の体制にすぐ戻りましたが、この時期からが真剣な取り組みの段階に入ったと思います。
その頃までには杜氏の地元への訪問を重ねた結果、送り出す側の事情、技術承継の構造等を相当理解できていました。また夏の間に杜氏の残していた書類、現場での各人員の詳細な動きの分析を進めた結果、製造計画書、原料米の確保割付表を蔵元が作成して杜氏に渡すことができるようになっていました。このやり方は、社員杜氏に転換し、協議して作成するようになるまで続きました。
4. 社員制への転換の進行、完成
1999(平成11)年から現在の杜氏である岡井勝彦が加わり、その後1名定着すれば季節工を一人減らすという過程を繰り返していきます。2004(平成16)年秋、蔵入りしてすぐの時期に井上杜氏が倒れ、急遽、井口茂士杜氏に交替します。赴く予定の蔵が突然休業してしまうことで空いていたそうですが、混乱した中で大変でしたが転機のひとつでした。
この井口杜氏は後継がないことをよく理解されて、2010(平成22)BYまで地元社員への技術指導に非常に注力していただきました。またこの時期、全国の杜氏組合にも地元以外の出身者を受け入れる動きが進み、能登杜氏組合の研修に参加することが認められるようになり、社員側の技術蓄積を大いに促進しました。
新人教育に醸造協会の通信教育(基礎コース)を義務付けしてきた他、3年経験を積んだら東京・滝野川の醸造試験場への1ヶ月研修参加なども有効であったと思います。国税局の鑑定官指導、毎年製造繁忙期前の講話等、当局、組合、協会の指導も熱心なものがあり、後継者育成の必要が認識されていたと思います。利用できる制度は無理をしてでも利用する姿勢で臨んできたと言えます。
蔵元側も世代交替期に入り、平成19年11月から2名が代表取締役となる時期を経て、同22年4月に現社長のみが代表となりました。休暇や処遇の改善も進め、休暇制度、十分とは言えないまでも生産性に応じた処遇を実現しない限り社員の定着はないとして、一層の高品質化と併行して転換が進められました。
平成23年秋から岡井が杜氏になり、季節雇用者は2名、社員が5人、精米アルバイトが1人となります。季節工は平成29年を最後になくなり、ここに製造の地元社員化が完成したことになります。
5. まとめ
最近では蔵元あるいはその子息が杜氏となる蔵も増えてきています。一部、その方が販売先での受けがいい面もありますが、見たところ一長一短で、製造と流通の主導権の問題や、農学、発酵の道を志した者に杜氏になれる機会を確保する意義、伝統が何故経営と製造を分担させていたかの捉え方や、経営者としても敢えて困難に挑戦するから面白い部分等を総合的に考え、当社は、困難を感じることも有る中で、経営と製造を分担する道を選んでいます。蔵元は経営と営業を掌握し、製造の設備、環境を整えつつ、杜氏を中心とした製造チームの自主的な成長を促すスタンスで臨んでいるのです。
もちろん今後も、モチベーション、チームワークの維持向上、特に若手の定着促進、一層の技術面での競争力の強化といった問題に取り組んでいかねばなりません。設備の改良、新技術の導入も併せて、生産性の向上、作業環境の改善、さらに最近大きなテーマとして登場してきた、地球環境保全への貢献につなげて行こうとしています。
ここでは、あくまでその過程を振り返ったわけですが、季節雇用から社員化への階段を上がることができた理由として、根本のところで、働く環境を重視することを基本として見ることができたからだと思います。また市場での競争を避けずに挑戦することを是とし、品質と生産性の向上こそが問題解決の鍵であったことの意味を改めて認識すべきだと思い、整理、強調し、書き置きたいと思います。
五代目 蔵元 名手屋源兵衛